002 ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲 第1番

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ブルッフ ヴァイオリン協奏曲 インターナショナル版 楽譜 フランチェスカッティ CD ヴァイオリン教室 バイオリン レッスン

気づいてみれば

 半世紀近くにも及ぶヴァイオリンとの関わり合いのなかで、幸運にも何人ものマエストロの方々から様々な教えを受けことができた際の細かなやりとりを総て鮮明に覚えていることについて、嘗て玉木宏樹氏から「無類の博覧強記」と言われたことがあります(笑)

そして

 その際にも話に出たのがアイザック・スターン先生とのやりとりで、スターン先生は“しつこい”などという次元ではない執拗なまでに追究でもなければ追求でもなく追及しているのではないかと思える程のレッスンをされる方で、教えられているこちらは眩暈がして倒れそうになったことを今でも昨日のことように覚えていますが、それ以上に強烈な印象をもたらしたのは、そうしたレッスンが何回か続いたある時「ヴァイオリンを教える際に最も重要なことは何か?」と訊かれたことです。

ところが

 その質問に対して、私は様々な要素が頭に浮かび、はたしてその何れが最も重要か…と答えに窮していましたが、スターン先生の答えは「それは教えないことだ」という意外なものでした。ですから私はその意味を、私の友人の歌舞伎役者が「歌舞伎の指導で、言わなければできないようなことは言ってもできない、といわれたことがある」と言っていた類の意味かと思ったところ、それは勘違いで、スターン先生が続けて語られたのは「ヴァイオリンを教える際に、相手に才能が有るのかどうかということを先ず教える前に見極めて、才能が無い者には決してヴァイオリンを教えてはいけない」という内容でした。

ということ

 上記のやりとりの後もなお何度もなんども繰り返しくりかえし眩暈がする程の指導をしていただけた私は…と、その点については安堵しましたが(笑)スターン先生の既述の台詞は、実際には非常に色々なことを考えさせられる問題だとも思いました。

そして

 嘗て師事した鷲見三郎先生も、そもそも誰もが習いに行けるという状況ではなかったことに加えて、三郎先生が電話で取り付く島もない言い方でレッスンを断るのを何度も見聞きしました。また、嘗て師事した鷲見四郎先生のお宅でも玄関先で泣いている親子を見かけたことがあり、四郎先生に理由を尋ねると「ヴァイオリンに向いていないことが会った途端にわかったから、私は教えられないとお断りしたんです」との回答には、当時は非常に驚いたものです。けれども、スターン先生の既述の台詞に照らせば、両先生ともヴァイオリンを愛すればこその断りであったことがわかります。

 

そうしたなか

 前の記事でも書いたように某・放送局での仕事をしていた当時は、番組によっては収録の度にオーディションが行われる場合もあり、自らも選別される側であるにもかかわらず、スターン先生の既述の台詞に照らして「この人は…?」と思う人はオーディションの後には見かけなくなることが殆どなのに対して「この人は凄いのだろう」と思う人が結果的に番組でも一緒に仕事をすることが多かったことは、オーディションの公正さを示すものであったと思います。

そして

 番組に出続けるということはオーディションに受かり続ける必要があったことから「コンクールよりも大変」などと言っていた仕事仲間も居ましたが、私の考えではオーディションに受かり続けることがマラソンに似たものだとすれば、コンクールは短距離競争のようなものだと思っています。もっとも、これが国際コンクールともなれば、短距離競争なみの熾烈な戦いを、マラソンの如くに続けて漸く優勝できる…という話を、別の先生のところで知り合った後輩がしていましたが、いずれにせよコンクールというものはオーディションとは異なる大変さが有ることは言うまでもありません。

そうしたなか

 コンクールの季節ともなれば、三郎先生のところでは多くの受賞の電話が入るのを先生はご自宅にいらして聞いていらした様子は、四郎先生のところでも同様で、これが学生コンクールともなれば、決して地方の方を低く評価するという意味ではなく、参加者の人数の多さによる競争率という意味において各地の予選会のなかでも東京大会のほうが、最終的に行われる全国大会よりも大変であるにもかかわらず、四郎先生はコンクールに参加された生徒さんに関して「一位で通るに決まっている」と仰られて電話を待つことなく他の生徒さんの指導をされていたのにも驚かされたことがあります。

ところが

 ある年、やはり様々なコンクールや学生コンクールが今年も開かれるという時に、学生コンクールの東京大会を一位で通った生徒さんの全国大会に、ある大人の事情から(という以上のことは書けません)四郎先生が直接出向かれることになったものの、ひとつにはご高齢ということもあるものの、ひとつには当時はコンクールの本選会場の周囲にしっかりと食事ができる場所が無かったために食事処に生徒さんともどもご案内するという目的もあり、私ともう一人の後輩が同行したことがありました。そしてコンクールの本番直前、参加者毎に個別に20分だけのリハーサルが許されており、審査員席への音の響き方などの確認をするべく控えていた私は、四郎先生がどのような仕上げの指導をされるのか?と固唾を呑んで見守っていました。そして、私自身、学生時代も含めてオーケストラ伴奏で何回も演奏しているこのコンクールの課題曲は、第一楽章において音程、第二楽章においてリズムで注意すべき点があるものの、コンクールで演奏される第三楽章では何が語られるのか?そこではアウアー派直系の奥義が語られるのか?…などと思っていたところがそこで繰り広げられた光景は、全く驚くに値しない驚くべき光景でした。

 

と書くと

 はたして驚くべきことなのか?それとも驚かないことなのか?ということがわからないので(笑)正確に書くと、そこで繰り広げられた光景は、その指導内容においては全く驚くに値しない内容であることに驚かされたのです。それは、これからあと20分でいよいよ優勝者を決する全国大会であるにもかかわらず、私が日頃下稽古をさせていただいたこともあった時と全く同じで、四郎先生は普段と全く変わりなく一音いちおん音程とリズムを正確に奏でるようにしか指導されなかったのです。

そして

 その時私は、私の下稽古が不正確なために修正されたのか?あるいは普段と同じ指導をすることで本番直前に気持ちを落ち着かせようとされたのか?などと思いながら、先生と一緒に本選会場の客席に着き、くじ引きで演奏の順番が最初となった四郎先生の生徒さんの演奏とともに他の出場者の演奏を聴いた時、私のそうした考えは全くの誤りであることに気づかされました。

というのは

 最初に聴いた四郎先生の生徒さんの演奏は非常に素晴らしかった…とはいえ、それでも何か所か直さなければならないところが私にも聴いて取れ、四郎先生も「(今日のコンクールが)終わったら、また音階から鍛え直さなければ」と仰られていました。ところが、続く出場者達の演奏は、何れも予選を勝ち抜いて全国大会にまで到達している方々であるにもかかわらず、直すべき箇所が無数に聴かれるようなありさまで、四郎先生の生徒さんが一番上手などという表現では収まらない他を圧倒する演奏で当然の如く優勝したからです。

そして

 例えば私が当時、今は無くなってしまった貿易会社からの依頼で日本国内のみならず世界中のヴァイオリンの弦を総て試していた関係で新しく知り得た海外の弦をコンクールの本選の5日前に持参した際、私が「せめてもう少し早く手に入れていればコンクールに間に合ったのですが…」と申し上げたところが四郎先生は「コンクールは金曜日だから、まだ間に合うでしょう」と、その日のうちに張るように命じたことも、四郎先生がコンクールを単に途中経過としてしか看做していなかったことを示しているご発言だと言えます。さらにその前年、他のある生徒さんがレッスンを休み、四郎先生が翌週「何故、先週は休んだの?」と訊いたところ生徒さんが「先週は芸大の入試の実技試験だったので…」と答えたところが「試験は夜中まであったのですか?そうでなければ試験が終わり次第レッスンに来なければダメでしょう!」と叱責されたのは四郎先生ならではのご発言だと思います。けれども、そうした先生の仰りようはともかくも、既述のコンクールでの光景は、コンクールに留まらずヴァイオリンの習得においては弛まざる指導が必要であり、その際にはホームページにも書いたようにひたすらに一音いちおん耳を傾けながら丁寧に指導を行い、一音いちおん耳を傾けながら丁寧に練習を行う他に方策が無く、最初は大雑把で徐々に正しく…というやり方は却って遠回りになってしまうことを改めて痛感させられる出来事でした。

 

とはいえ

 ならば楽譜に記された音符通りの音程とリズムさえ機械的に拾って忠実に再現させるようにすれば良いのか?と言えば決してそうではなく、学習者の習得状況に応じた課題曲の選定と校訂譜の選択が極めて重要です。何故なら、学習者の習得状況に応じた課題曲の選定と校訂譜の選択により、学習者はその時点で習得すべき課題を無理なく修得できるのであって、その取捨選択が正しくないと、学習者はその時点で習得すべき課題を確実には修得できずに曖昧な演奏しかできなくなってしまうからてす。そしてそうした問題を蔑ろにしないまでも徹底させることなく安易に[音楽]を語る先生に就いていると[音楽]ではなく[音我苦](不安定な演奏の音が我を苦しめる)しか奏でられなくなってしまうのです。

そうしたことから

 学習者の習得状況に応じた課題曲の選定と校訂譜の選択こそがレッスンの根幹を成すものであり、そうした学習者の習得状況に応じた課題曲の選定と校訂譜の選択に精通した指導者に師事しなければヴァイオリンの上達は望めないのです。しかし一方で、そうした事柄に精通し過去の多くの叡智が示す夫々の学習段階に応じた課題曲の割り振りを単に機械的模倣するだけでは学習者の個別の進捗状況に的確に応じられないことから、ヴァイオリン指導に際しては課題曲の選定と校訂譜に関する問題を常に考え続ける必要があります。 

そうしたなか

 既述の学生コンクールにおける課題曲は、ブルッフ/ヴァイオリン協奏 第1番から第三楽章で、多くのヴァイオリン指導者においてそのの校訂譜としてはフランチェスカッティによるインターナショナル版を用いています

ブルッフ ヴァイオリン協奏曲 インターナショナル版 楽譜 フランチェスカッティ ヴァイオリン教室 バイオリン レッスン

(印刷ががった表紙が如何にもインターナショナル版です(笑))

録音というものが存在しない時代の校訂者による校訂譜ではなくフランチェスカッティによる校訂譜を用いるのであれば、校訂者自身、すなわちフランチェスカッティによる録音にも耳を傾けることで、その校訂譜に綴られている内容は勿論、綴られていない内容についても更に多くのことを知る手掛かりとなります。

ということで

 フランチェスカッティによるブルッフ/ヴァイオリン協奏曲 第1番の録音を探したところ、それもまた前の記事で掲げたメンデルスゾーンの協奏曲のCDに、それよりも2年前の録音として併せて収録されていました。

フランチェスカッティ(ヴァイオリン)ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル 1952年録音 ヴァイオリン教室 バイオリン レッスン

フランチェスカッティ(ヴァイオリン

ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル 1952年録音

そして

 前の記事で掲げた録音同様、上掲の録音についても後年の再録音よりも素晴らしいだけではなく、これもまた前の記事で書いたように、同じ音源であるにもかかわらずネット上で聴かれる音よりも上掲のCDの再生音のほうが不自然さがなく運指も運弓も克明に聴取可能です。また、上掲のCDに収録されているサン=サーンス/ヴァイオリン協奏第3番の第三楽章などでは、およそ校訂譜とは無関係…とさえ思いたくなるほどの演奏であるのに対して、ブルッフでは多くの部分で校訂譜通りの演奏が聴かれる点に、フランチェスカッティがそれぞれの協奏をどのように捉えていたのかということも垣間見られます。

ですから

 フランチェスカッティの校訂譜通りに演奏させる場合は勿論のこと、その校訂譜を色々と改編する場合だけではなく、その校訂譜を用いない場合においても、フランチェスカッティによる演奏を聴きながらフランチェスカッティによる校訂譜を眺めることで、必ずしも印刷された楽譜だけでは知り得ない多くのことが見聞きできます。

ブルッフ ヴァイオリン協奏曲 インターナショナル版 楽譜 フランチェスカッティ CD ヴァイオリン教室 バイオリン レッスン

ただし

 CDや録音を聴く…とはいっても、その音源における運指(開放弦やポジション移動の箇所だけでなく、1234の何れの指を使っているか)や運弓(スラーやスタッカートやソステヌートの具合だけでなく、ダウンとアップの何れであるか)について総て聴取できた上ではじめて校訂譜に綴られている内容やそれ以外のことを知る手掛かりとなるのであって、そうしたことも聞き取れないないままに録音を繰り返し聞いたりすることは大雑把にしか捉えられていないこと意味し、ヴァイオリンの学習に際しては却って有害なものとなります。そしてそうしたことが詳細に聞き取れるような指導者に師事しなければ大雑把な弾き方しかできなくなってしまうのです。つまりCDや録音を聴く…とはいっても、ヴァイオリンの愛好者が名を鑑賞する場合と、ヴァイオリンの学習者が課題を聴取する場合と、ヴァイオリンの指導者が録音を判別する場合では、それぞれ聴き方が異なり、そうした判別ができる指導者に師事しなければ上達が望めないだけではなくそうした聴取と判別を行う際にはじめて校訂譜の校訂者による録音の聴取が意味を持つと言えます。

 

ところが

 もしもその曲の校訂譜の校訂者の録音が遺されているのであれば、その録音を聴いてみるべき…という点では、より一層大きな意味を持つ校訂譜と録音が存在したので、それについては次の記事で書きたいと思います。

 


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